パリは何世紀にもわたって芸術の中心地であった。19世紀にはショパンやリストが、20世紀前半にはフォーレやドビュッシーが活躍し、パリの社交界は中流階級の上流階級の女性たちによって盛り上がり、彼女たちはサロンを開いて貴族や裕福な中流階級の実業家、芸術家たちをもてなした。これらはパリのサロンと呼ばれた。
社交場としてのサロンは、17世紀以降、宮廷や貴婦人の邸宅で階級間の交流を育みながら発展していった。文学、哲学、芸術、音楽界のエリートたちは、彼女たちによって厳選され、サロンの常連客となり、この機会に新しい思想や文化的潮流が生まれた。サロンは、女主人の本邸や隣接する会場で開かれた。シンガーミシンを発明した実業家の娘で、ポリニャック公爵夫人となったウィナレッタ・シンガーは、パリで音楽サロンを開いた。グレフルエ伯爵夫人は、マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』に登場するゲルマント公爵夫人のモデルで、ポリニャックのサロンに頻繁に出入りしていた。
ゲストはサロンに集まり、政治、哲学、芸術について語り合い、女主人が選んだ作曲家や演奏家のコンサートを聴いた。このような立場で、サロンの女主人はショパン、リスト、フォーレといった作曲家たちの名声を高める手助けをした。
ドビュッシーが生きたベル・エポックは、1870年の戦争と1914年の第一次世界大戦の間の平和な時代で、1899年にパリ万国博覧会のためにエッフェル塔が建設された。ジャポニスムの時代でもあり、特に浮世絵が大人気だった。ドビュッシーは「一音成仏」という禅の思想に影響を受けた。
北斎の木版画が交響詩『海』の表紙に使用されたことはよく知られている。ジャポニズム旋風は、浮世絵と和歌の両方に感銘を受けたロシアの作曲家たちにも広がった。ストラヴィンスキーは同年、「ジャポニスムの3つの詩」と「春の祭典」を作曲した。今回のコンサートでは、三味線とピアノの伴奏で、大谷翔子の素晴らしい歌声を日本語で初披露する。
ドビュッシーのヴァイオリン・ソナタは、巨匠ジェラール・プーレと密接で深いつながりがある。実際、彼の父でヴァイオリニストのガストン・プーレは、1915年にドビュッシー自身のピアノで世界初演を行った。
このコンサートは、ジャポニスムで繰り広げられたサロンの物語を、当時のパリの状況を反映させながら聴き、初演から104年を経たドビュッシーのソナタで締めくくる機会となるだろう。
プログラム
F.ショパン:ノクターン op.9-1 (1830-1832) 6'
G.フォーレ:ノクターン第6番(1894)9'
F.ショパン : ポロネーズ 第6番 op.53 " Héroïque " (1842 ) 7'
F.ショパン : アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ op.22 (1831 et 1834) 15'
F.リスト :ホンロワーズ狂詩曲第2番(1847)10' -Pause
G. フォーレ:ヴィオラとピアノのためのソナタ 作品13(1875) 26'
C.ドビュッシー : ヴァイオリンとピアノのためのソナタ (1916 et 1917) 15'